知らない方がいいこともあるとは言うけれど。
真実を知るには相応の覚悟がいるのだろうけれど。
それが決して良いものではないと分かっているけれど。
何も知らずに生きることを、俺は良しとしなかった。
『The night before』
黒と白の盤上で、同じ二色の駒が規則的に並んでいる。
踊るように動くそれら。自らの思うがままに踊っているのか、それとも見えない何かによって踊らされているのか。
盤上の駒たちは気付かない。もしくは、気付いていながらそれを享受する。
黒の駒は躊躇いもせず眼前の白を討ち取り、白の駒は好機とばかりに離れた黒を奇襲する。
舞踏場のようにくるくると回る小さな戦場。黒と白は交じり合わず、混沌と秩序をもってしのぎを削る。
そして。戦況は大詰め、曲目は最終、いよいよフィナーレというところで。
飽きてしまった男の姿をしたものは、駒を投げ出し盤上から視線を外した。
「なぁ~!一人で遊ぶの飽きたんだけど!」
ソファにもたれかかり、子供のような声をあげる。ひどく明るい金の髪が、拍子で少しばかり揺れる。先ほどまで遊んでいた盤上に、一切の興味は無くなってしまったらしい。
その声を聞き、オフィスチェアに座っていた男は業務の手を止め顔を向ける。色の付いた眼鏡の奥、深紅の瞳には疲れと煩わしいという感情が滲んでいる。今にもため息が出そうな口を開いた。
「もう少し我慢出来ないのか」
「できない!」
「……はぁ、君に構っている暇などないと再三言っているだろう」
「じゃあ何か、オレと話そうぜ。ヒマ!」
「話を聞いていたか?」
間髪入れず否と返答される。幾度となく繰り返した問答。口を開いた傍からため息が溢れ出る。
辟易する男を見て、対照的にニコニコと笑う金髪。特徴的な尖った耳は、ご機嫌そうにピクリと動いた。
もう一つため息を零し、呆れたように目を閉じる。こうなっては少しも話を聞いてくれないことをよく分かっている。仕方ないとばかりに、チェアを回し金髪に背を向け、眼前に広がる夜景に目をやる。
「ツカサ、夜景好きだよなぁ」
「……夜景というよりは夜が好ましい。君と違って静かだ」
「それ何回も聞いた!」
「騒がしいのは苦手でね」
要求通り話をする辺り自分も自分だと思うが。腹いせにとばかりに皮肉を混じえるが一つも気にする様子は無い。面白くなさそうに煌めく夜景を眺める。
「まあこれから騒がしくなるけどな」
「……」
口には笑みを湛えたまま、先程投げ出したチェスの駒を手に取り弄ぶ。黒い王の形をした駒は照明の光を鈍く反射させた。数分前まで戦場に居たその駒が戦うことは、しばらくは無いだろう。戦士の休息と言えば聞こえはいいが、ただただ途中で投げ出されてしまっただけだ。
「俺の暇つぶしに付き合ってくれて嬉しいぜ」
「君には協力してもらっているからな……。仕方なくだ」
「協力、なぁ」
可笑しそうに繰り返す。背後の金髪が何を言わんとしているのかすぐに理解したが、特に口にするものでもないので静かに次の言葉を待つ。
何も言わない男にまた一つ笑みを漏らした。手の中でころころと黒い駒を転がす。
「早く遊びたいよなぁ。そろそろ向こうも準備できる頃だろうけど!」
「何度も言っているが、私には時間が無い。君も分かるだろう」
はいはーい、と真剣味のない返事に分かっていないな…と片肘をついた。今日で何度目かも分からないため息も出る。
以前、彼から『暇つぶしの相手』とやらを聞いた。あまりに現実味が無く話を聞き流してしまいそうだったことを思い出す。目の前にいるその彼自身も、あまり現実味がないのだから笑えない。未だに、全てが、半信半疑である。
「く、ははっ、それじゃ、始めようぜ?」
男の心中を見透かしたかのように笑う。
笑う。笑う。これから始まる『暇つぶし』という名の喜劇あるいは悲劇を想像し、愉快に、悪魔は笑った。
「神と悪魔の遊戯を」
◇
暗い、どこかにある建物の一室。
窓から差す月明かりだけが、部屋を薄青に染めていた。
音を立てるのも憚られる静寂のなか、紙の上をペンが走る。それは淀みなく、滑らかに。流れるように文字を綴っていく。部屋の暗さなど意に介さず、まるで全て『見えている』かのように。
「主役、としては申し分ない……。良い話が書けるといいのだけれど……」
水面に落ちる雫のように、中性的な声は静かに部屋に響く。その声のどこにも、感情は存在していない。
月明かりが声の主を淡く濡らす。男か女か『人』であるかすらも分からない、作りものと疑うほどのその顔にも、やはり感情はなかった。
白い手には羽の付いたペンと丈夫な赤い表紙の本。本は、ほとんどの頁が真っ白であるが、冒頭の数頁は今まさに書かれていたところである。
「どのような物語を、君は歩むのだろう……」
口ではそう言うが、その実何となくは分かっている。
主役、主人公、ヒーロー。そんな大層なものに抜擢された少年を思う。
苦悩し、過去の記憶に苛まれる少年を思う。
少年が持つ運命というものは、きっと易しくは無い。
そうは知っていても、悲嘆することも憐れむこともしない。ただ無感動に客観的に少年が歩む物語を書き綴るだけだ。
それでも、人間の少年の可能性を、想像の範疇を超えてくることを、期待しない訳でもなかった。
少しして。物語の題名を思い付く。飾り気もひねりもないその題に、私らしいと独りごちた。
書き手は、本にこう記す。
『悪魔の遊戯』と。
それは、物語が始まる、少し前の夜のこと。